結婚すれば永遠の幸せを手に入れられると思っていた。でも現実はそうじゃない。愛してはいるけど、恋人じゃなくなって冷めていく。ドラマ≪カルテット≫を見た台湾人の感想。


人への愛が末路まで達するとは、どのような感覚なのでしょうか?

大ヒットしたドラマ『カルテット』のなかで、巻真紀(松たか子)と失踪した夫・幹生(宮藤官九郎)は、夫婦とは別れることができる家族であり、愛しぬいた最後に関係が末路にまで到達したら、方向転換して別の道を歩みだすしかないのだと、生々しく体現していました。

真紀と幹生は恋愛結婚でした。はじめは全てが美しく見え、一緒に空高く飛ぶ凧を見上げ、そばにいる相手の手をぎゅっと握りしめ、安心感をかみしめ、ふたりなら未来が切り開けて、それぞれの目標が違ったとしても大丈夫だと思っていました。

結婚した後、真紀は念願の家族ができたのだから、好きな人のためにスープをこしらえたりする日々の繰り返しでも苦ではないと思っていました。しかし次第に、からあげを揚げながら彼女は葛藤します。幹生がネクタイを緩めて家に帰るたび、家族とは恋人の退化版で、好きは薄れていくもので、恋愛結婚だから頑張らないと、と。

結婚して2年、まだアツアツの時期のはずが、家族を得て、恋人を失ってしまうのでした。一緒に見た凧は、飛びあがった果てに、落ちてしまったのです。

幹生が失踪してから、そのままにしてあった脱ぎっぱなしの靴下は、余熱を残し、机の上の飲みさしのビールは、ふたりの関係を映し出します。途中まで進んだところで中止を余儀なくされ、逃げて、無くなって、消えてしまった。

夫婦とは一体なんなのでしょうか?真紀は、結婚したのにどうして片思いのように生きなければならないのかと、寂しさを感じていました。時々、夫がからあげを食べながら同僚に放ったこの一言を、彼女は思いだします。

愛してるけど好きじゃない。これが結婚。

夫が消えてから1年間、真紀は、自分自身に言い聞かせるかのように、夫の靴下をそのままにしていました。愛は万能ではなく、結婚という契約も永遠ではなく、結婚指輪はこれから先の安泰を約束するものではない。愛とはそんなふうにリアルで、いつか終わりが来て、行き場をなくすものなのかもしれない。親密な関係が難しいのは、手を繋げば永遠を誓えるというわけではないからです。

人は、どうしても傷ついたり一人で涙を流したりします。でもそうして別れた後の日々に慣れ、自分を癒すことを知り、リセットするのです。親密な関係の甘みを知ったり、傷ついたりを繰り返した後で、強く柔軟になれるのです。

真紀と幹生の別れは平和的で、悲壮感ただようものではありませんでした。涙は静かに流せばいいのです。ご飯を食べながらひっそりと。愛が消えたとしても、感情をあおるようにむせび泣く必要はありません。最後に笑いながら思い出を話す方がよっぽど良いでしょう。

昔、すごく昔、あの人と一緒だった。今から一歩を踏み出してあの人から離れて、自分の人生を歩む。

離婚は簡単。結婚指輪をはずし、離婚届を出すだけで法律上の関係はなくなります。無理やり見知らぬ人を演じながら生きる必要はありません。親密だったときの記憶を捨てることもなければ、常に思い出したりもしません。あの靴下のように、そのままにしておくのです。

愛するあなた。愛してるけど、好きじゃない。